琵琶 双山敦郎 晴耕雨琵

琵琶プレーヤー双山敦郎のブログ

琵琶歌・琵琶語りを現代化するためには

語りの現代化

 

日本音楽は、和琴を除いて

そもそもは大陸や朝鮮半島から渡来してきた楽器であって

様々な国際文化が取捨選択されながら発展されたものでした。

 

奈良時代平安時代に渡来人とともに流入した以降の大きな流れは、

16世紀半ばの三味線でしょうか。

中国の三絃や琉球三線から入ってきた。

それも含め

長く大陸や朝鮮半島を窓口とした交流だった。

 

 

そこからの衝撃が西洋音楽で、

体系化・理論化された音楽は

雅楽以来の衝撃で、

 

明治の邦楽家の衝撃たるや、想像を超えるのだろう。

 

そんな中で

筝の宮城道雄や尺八の吉田晴風
戦前に西洋音楽の技法を取り入れた技法が
「新日本音楽」としてムーブメントになったのです。

 

新日本音楽の代表曲の一つ、

正月に流れる筝と尺八の「春の海」
今聴くと、ザ日本、な古典芸能的な音楽に聞こえるかもしれませんが、
あれは西洋音楽の技法、
ピアノやハープの技法がふんだんに取り入れられている斬新な曲だったのですよ。

 

 

この戦前の新日本音楽の流れとしては
琵琶に関する記述が見当たらないのですが、

琵琶劇・琵琶合奏や、

筑前琵琶で三世橘旭翁のヴァイオリンと琵琶の合奏曲や

西洋音楽形式の曲は、新日本音楽に呼応した動きなのだろう。

 

その後、戦後には
西洋音楽の作曲家が主導した
日本楽器の取り組みがあり、

 

それには武満作品で琵琶も重要な役割を果たした。

 

しかし、

琵琶語り・琵琶歌はどうなったか、というと
実は、これぞ、といった解がない。

 

戦前の新日本音楽も、

戦後の現代音楽・現代邦楽も
基本的には器楽曲からのアプローチになる。


それは本来器楽が中心だった琵琶の
千年ぶりの原点回帰という点で評価できる。

 

また、その前後で世界的に伴奏楽器が独奏楽器に発展していく流れがあります。

 

中国琵琶でも劉天華という天才が
歌や他の楽器の伴奏楽器だったピパを
独奏楽器に生まれ変わらせています。

 

そのような世界的な潮流としても

琵琶の器楽としての再評価は意義があります。

 

しかし、

琵琶は楽器自体のポテンシャルはありつつも、
語り物芸であるという、
講談や落語と同じ、物語を語る芸の側面もあるのです。

 

 

そういう琵琶語りの現代化

これがなかなか難しいのです。


J-POPでは、
7回目のベルで受話器を取る君のことも
夜中に今何してるとLINEが来ることも、
歌える。

 

が、
琵琶では千年前の源平合戦
500年前の戦国時代、
150年前の幕末明治、は語るが
着物を着ていない日本人を語れない。
どうしても違和感がある。

 

 

でも、その違和感は実は戦後からなんです。
琵琶は、語り物と結びついた10世紀終わりから
常に「現代」を語ってきたのです。

 

10世紀の終わり
まだ保元の乱平治の乱が起こる前は
説教や声明の伴奏と共に、貴族の作った詩に節をつけて語っていた。

 

当時の貴族は、まぁ平和ですから、
漢詩以外は恋なんです。

百人一首なんて四割以上が恋ですからね。

 

琵琶が、誰かを想う歌の伴奏を、その時代の言葉で語っていた。

 

 

13世紀になって平家物語と結びついて
平家琵琶(平曲という)となった以降も
戦記だけではなく、
各地を周遊して見聞きした出来事を
節回しをつけて語っていたのです。
新聞や瓦版がなかった時代には、貴重なニュースソースとしても
重要な役割があった。

 

 

そして、薩摩琵琶だと
西郷隆盛の最期を謳う曲は
まさに当時代を語る曲であった

 

それが、いつから「現代」を
語らなくなったのか

それが戦後なんですよね。

 

 

これが悲しくもあり、責任もある話ですが
琵琶歌は戦中に国威発揚の曲、
戦争美談をン十曲も作ってきた。


爆弾三勇士、乃木将軍など、なかなか再演難しい曲たちですね。

 

 

それでも、戦中には
その時代の、まさにリアルタイムな曲を
着物を着ていない(軍服ですが)、現代人を語っていた。

 

しかし、戦後には
日本の古典芸能はGHQは厳しい目を向け
特に琵琶は戦中に国威発揚に使われたこともあって
早くから復権した浄瑠璃らと違って
長く再開が難しかった。


オーディエンス側も、そんな生々しい戦記は忌避しますよね。

 

復権したのちも、
敦盛や壇ノ浦など、
これは古典の文学作品ですやん、ということで、

主に古い時代の古典曲が中心となった。

 

戦前や戦中に創作された「現代」の物語は演奏されにくく、
自然と、専ら着物を着ていた時代の日本人を語ることになっていった。

と。

 

つまりは、
琵琶の1400年の歴史で、
現代の出来事を現代の言葉遣いで語らなくなったのは
ほんの70年ほどなんです。

 

これをどうするか。

いや、ほかの古典芸能もそうじゃないか、と
着物を着ない時代からは表現できてない、と
いう人もいるでしょう。

 

それはそう。
能も狂言も、それはできていない。

 

でも、たとえば落語はどうですか。


新作落語は、
携帯電話を使う現代人、
上司の機嫌を伺うサラリーマン
コロナ禍におけるソーシャルディスタンス

果敢に表現している。


熊さんと八つぁんが出てくる古典落語とは別に
現代を噺して笑える、確固たる分野がある。

 

切り絵もそうですよね。
高速のジャンクションが交差する下で流れる隅田川や、
高層ビルが立ち並ぶ中の鳥居など、
現代の街並みを表現する作家はいる。

 

最近だと講談でも新作講談がチャレンジされている。

 

つまりは、やれるはずだ、と。


特に能や狂言は、装束や面などの制約があるので、
シェークスピア能など、テーマを普遍化することはできても、
スーツやジャケットに着替えるのは難しいかもしれない。

 

(その点はナウシカ歌舞伎はすごいですし、
アメリカポリスが登場した中村座のニューヨーク公演もすごい。)

 

そんな、役の衣装や面を着けるの演劇とは違い、

琵琶は、役の衣装を着て演技をするわけではなく
落語と同じく、話す内容で表現するのですから、

新作落語と同じく、
やれるはずなんです。

 

新作落語も、噺家は着物を着て話すのですから、

紋付で現代を語っても良い。

 

 

とまぁ、長々と話しておいてなんですが、
おそらく同じ思いでチャレンジしてる演奏家はいて、
私のサークル後輩も琵琶ユニット組んでた頃は
会いたくて震える曲を歌ってましたし。

それが一つのムーブメントになって、

 


古典落語新作落語が半分ずつぐらいのウェートになるのが

夢ですかね。

いや、私は古典が好きなんですが笑。