琵琶 双山敦郎 晴耕雨琵

琵琶プレーヤー双山敦郎のブログ

狭義の「薩摩琵琶」と広義の「薩摩琵琶」

琵琶史については何度か取り上げておりますが、

薩摩盲僧から薩摩琵琶となった以降、

幕末明治大正昭和の分岐と呼称のお話を一つ。

 

きっかけはTwitterの中で

「薩摩琵琶と錦琵琶を間違えると激怒する方がいるので気をつけないと」というもの、

更に、それを間違えることは礼を失することなのだ、と。

 

一度は、スルーをしたのです。

が、やはり。そのツイートのコメントなどをみると

そのような狭量な琵琶人が存在し、又は一般的であるような印象を受け取られているようなので、

そこは訂正をしなければと考えたのです。

 

歴史を紐解くと、

まずは薩摩盲僧琵琶、

伝説的には島津日新斎忠良(1492-1568)が淵脇寿長院に命じて

薩摩琵琶歌を創始したとされておりますが、

 

薦田治子先生の研究により、盲僧琵琶は1674年の「官位院号袈裟廃止」

いわゆる三味線禁止令をきっかけに、柱を高くするなどの改良を行ったことが

楽器としての盲僧琵琶に繋がったとされております。

 

そのような盲人音楽が晴眼者に対して開放されたのは

おそらく18世紀中ごろか

橘南渓『西遊記』(1795年)には、

薩摩大隅には「平家琵琶などよりは小さ」い琵琶があり、

「年若き武士皆琵琶をもて遊ぶ」とされており、これが晴眼者の琵琶としての初出。

この段階で風習となっていたので、創始は遡れるでしょうが、

18世紀中頃に、武士や町民が琵琶を弾き歌う風習があったと推測されております。

 

さて、そのような薩摩琵琶は

薩摩藩士の中央進出に伴って東京に紹介されていきます。

近代化・国威発揚を目指す明治維新政府のもとで、享楽的な三味線音楽よりも

勇壮・剛健な琵琶歌がもてはやされるようになりました。

 

その琵琶ブームに火をつけたのは東京虎ノ門出身の永田錦心(1885-1927)

優雅で洗練された声楽的技法を取り入れ、楽器の改良をするなどして錦心流を打ち立て、

「帝国琵琶」というコンセプトを打ち出します。

 

この「帝国琵琶」という名称が、

薩摩琵琶を単なる郷土楽器から全国的な楽器に拡大することの大きな要因となりました。

東京出身の永田錦心の改革がなければ、

薩摩琵琶は薩摩竪琴や天吹と同じく地方楽器の地位であったろうと思われます。

 

この錦心流の独立をもって、それまでの薩摩琵琶は正派を名乗るようになります。

ある意味では、最も狭義の「薩摩琵琶」は薩摩正派を指す呼称といえます。

 

永田錦心は更に楽器の改良も考え、

勘所を増やすことの器楽的な改良、

女性奏者へ負担となっていた押し干奏法の軽減などを目的に

大正14年に五柱の錦琵琶を考案し、翌15年10月に発表します。

 

これを若き天才琵琶奏者である水藤錦穣に託して錦琵琶と名付けます。

永田錦心はそれから夭折したのですが、

水藤錦穣は更に四絃から五絃にするという改良も行っています。

それが四絃を切れにくくして、復絃による音響効果も多くなります。

 

この錦琵琶を開発したときに、

それまでの薩摩正派と錦心流の四柱の琵琶は狭義の薩摩琵琶となり、

五柱の新琵琶は錦琵琶として区別されるようになります。

 

もっとも、当時の琵琶新聞や雑誌『水聲』においても

薩摩琵琶の中の新琵琶、という捉え方で認識されておりましたので、

錦琵琶についても「広義の薩摩琵琶」に含まれていたと考えられます。

 

そのあと、水藤錦穣と錦心流の宗家争いが全国紙を飾り、

天才永田錦心が亡くなったことも相まって琵琶ブームが終息することになります。

この宗家争いが「狭義の薩摩琵琶」がセンシティブになる一つ目の要素があります。

 

そこから30年の戦後

国威発揚の一助となった琵琶はGHQの統制を受けて衰退をしていたところ、

鶴田錦史が新しい琵琶を打ち立てます。

五絃五柱の錦琵琶を基に、

腹板を薄くする、菊水型の駒を開発してオクターブピッチのズレを解消する

撥を薄くしてスリやハタキ奏法の開発など

「鶴宇琵琶」として発表します。

なお、オクターブピッチは、その後糸口に段差をつけることで解消されたため、

今では菊水型の駒を使うことは稀になりました。

以上の点から、外見から錦琵琶と鶴田流琵琶を見分けるのは難易度が高いです。

 

しかし、当時の琵琶界のフィクサーである水藤枝水が

新しい名称である「鶴宇琵琶」での集客が難しいと考えて、

「薩摩琵琶鶴田流」と称することを勧めます。

鶴田錦史は幼少期から17歳までは「薩摩琵琶錦心流」としてプロ活動をしており、

「薩摩琵琶」に愛着とアイデンティティをもっていたため、

「薩摩琵琶鶴田流」を名乗るようになります。

これには、正派や錦心流からの反発も少なくなかったのですが、

当時のフィクサーである水藤枝水と、実力者鶴田錦史の影響力の中で、次第に定着していきます。

(「狭義の薩摩琵琶」がセンシティブとなる要素の二つ目がここにあります。)

 

以上のように、薩摩琵琶には

最狭義は正派のみ、

狭義は正派と錦心流

広義では、正派・錦心流・錦琵琶・鶴田流

となっていきます。

 

この広義の「薩摩琵琶」は音楽史の中では一般的な用法であり、

日本伝統音楽講座『音楽』監修:小島美子

十七章『琵琶楽の流れ』薦田治子先生

においても、以下の挿図で説明がされております。

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琵琶分類

また、旧説の紹介であっても、

『日本琵琶楽体系』における田邉久雄先生の解説においても

錦琵琶は薩摩琵琶の項目の一つとして紹介されており、

「広義の薩摩琵琶」の中の流派であるという認識が示されております。

 

以上のとおり、単に「薩摩琵琶」としても

例えば薩摩盲僧琵琶から脱して晴眼者の琵琶となった趣旨の文脈なのか、

同じく近代琵琶の一つである筑前琵琶との対比の文脈なのか、

はたまた、錦心流が創設された際の従来派閥である正派を意味するのか、

若しくは、五柱の琵琶と対比するうえで四柱の琵琶という趣旨で指すのか、

広く日本音楽史の研究の中での「薩摩琵琶」の用法なのか。

 

以上のとおり

「薩摩琵琶」は時代と文脈と場面によってさまざまに射程が異なってくる用法となります。

 

以上を踏まえて、一番最初のツイートを検討致します。

すると、

これは「狭義の薩摩琵琶」の趣旨で、それと錦琵琶とを間違えることについてのものだと思われます。

 

しかし、「薩摩琵琶」という単語が上記のように場面・時代・文脈によって変化するもであるからこそ、

そのような複雑な用語の「間違い」について、琵琶に興味をもった方の素朴な指摘に

「激怒」することは、少なくとも一般的な態度ではありません。

 

万が一、本当に「激怒」するような方がいるのであれば、それは上記のとおり

琵琶史について、不勉強な方と言わざるを得ない。

 

いずれにしても、琵琶史や音楽史に限らずとも、

故意の間違いであれば格別、そうでない指摘に対して「激怒する」というのは、

いかなる学問においても、望ましい姿勢ではないことは明らかです。

 

そして、新規ファンを獲得していくことが課題の琵琶界においては

尚更にそれが妥当します。

 

ちなみに、以上のセンシティブな要素があるからこそ、

私自身としては「薩摩琵琶の錦琵琶」や「薩摩琵琶鶴田流」ではなく、

錦琵琶・鶴田流琵琶と呼ぶようにしていますが、

これは己に対するポリシーの話。

 

ビギナーがそれを言ったとしても、上記の用法があるからこそ間違いではありませんので、

それは、できるだけ琵琶の入り口を広めて、

琵琶を楽しんでもらうために、

ポジティブな言葉を選んでいきたいと考えております。